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常時200種類以上ですね。
例えばチーズフェアの時はチーズを使ったパンを取り上げるなど、そのシーズンの企画にそって随時10種類位は変えています。
昭和31年に紀ノ国屋ベーカリーを始めてから、主食パンを中心に、最近はお客様の嗜好に合わせておやつ的なパンも扱うようになっています。しかし、やはり食パン、フランスパン、ドイツパン、アラブ系のパンといった主食系統のものが基本で、全体の7割を占めています。
というのも、ベーカリーができた当時は紀ノ国屋に来店するお客様の大半は外国の人で、サラダは何にしようか? メインは?チーズは?ワインは何を選ぼうか? そしてパンは?という流れで買い物をしていました。今もそのひとつの流れになっているスタイルは崩せません。甘いおやつパンばかりが増えると他の商品にも影響してしまうのです。
紀ノ国屋で一番売れているのは、イギリスパンです飽きのこないホップ種の香りがするおいしいパンです。

最初はアメリカでした。
戦後、日本にアメリカの粉文化が広められ、盛んにパンがつくられました。しかし技術がともなわない。そこでまずアメリカのパンを徹底的に学ぶことが必要だったのです。当時(昭和30年頃)月給が一般的に8,000円位の時代に、ロールパンが1個30円。高いパンが飛ぶように売れました。
「高くてもかまわない、その代わり“いいもの”をつくる」がモットーでした。外国のVIPが集まるサロンやレストランにもおさめていたので、フランスパンやバターロール、ブリオッシュやクロワッサンもつくりました。
昭和30年代には、戦後の経済復興でヨーロッパの人々がどんどん日本にやってきました。その中で、ドイツ人はトランクに黒パンを入れて持ってきました。日本には白パンしかなかったからです。
そこで大使館から、ドイツの黒パンを勉強して日本でつくってほしいという依頼があり、ベーカリーのスタッフ一行がドイツに行くことになりました。デンマークとの国境に近い北ドイツのパン職人の家で、ドイツパンの原料になるライサワー種からつくる技術を学んだのです。
ドイツの人は堅いイメージがありますが、いったん心が通じ合えば、心底親しくしてくれるというのは本当で、職人は最初の1週間、私の様子をみた後、「よし、今日から家族の一員だ」といってくれました。それからは台所にも勝手に入っていいし、家族同然、それ以上の親しみを持ってくれました。
「パンのつくり 方はすぐ覚えられる。 大切なのは、“ パン の食べ方” を知らなければならない。」
ドイツの食生活から学びました。最初は3ヵ月、私が34歳の時です。
その後、イタリアやスイスなどヨーロッパ各地を勉強してまわりましたが、最初に基本をしっかり教えてもらったので、どこへ行っても困らなかったです。
完全なるマイスター制度です。
自分でベーカリーを始める時や、大きな工場の長になる時にもマイスターの資格が必要です。マイスターの下のゲゼルという資格をとると、一般のパン職人としてわたり歩くことができます。その下は見習いです。マイスターが見習いを教育する義務があり、週1〜2回勉強する国の機関があります。3年間その学校に通った後、ゲゼルの試験があります。
ドイツに限らずヨーロッパは徒弟制度ですから、各国に同じような システムがあると思います。